その夜。 日付が変わるにはまだ少し早い時間帯。 宿屋の割り当てられた部屋の中で、は黒い服に身を包み、武器の確認をしていた。 テーブルに並ぶのは、やや大振りの使い込んだナイフが2本。 さらに、投擲に使う投げナイフが10本ほど。 それらに刃の欠けなどが生じてないことを丁寧に確認し、身につける。 そして、部屋の窓を細く開け、獣型――蝶の姿になった。 ローとの約束の時間にはまだ早いが、人通りの多さを含め、周囲の様子を探っておきたい。 静かに翅をはためかせ、は3階の窓から夜の街に飛び立った。 なるべく建物の影を移動しようと考え、高度を下げて宿屋の正面にある飲食店の影に入ろうとした、 その瞬間。 殺気を感じたのと、銃声がしたのはほぼ同時だった。 第6感と呼べるであろう感覚がかろうじて危険を察知した結果、は無意識のうちに蝶の小さな身体を捻っていた。 そのおかげで致命傷は免れたものの、翅を何かが貫通した感覚とともに、バランスが崩れる。 撃たれた、と思った時には動揺のせいか能力を制御できず、の身体は人獣型に戻った状態で地面へと叩きつけられた。その衝撃で息が詰まる。 受け身をまともに取れなかったせいで、左半身に激痛が走った。 (あばらと腕…イったかも) 背中の感覚にも違和感を感じた。おそらく落ちた衝撃で翅がひしゃげたのだろう。 さらに、呼吸をするたびに胸部も痛むが、それらの異常に悠長に構っている暇はない。 何とか上半身を起こし、銃弾が飛んできた方向を見据えると、一人の男がこちらに歩いてくるのが見えた。 「いい姿だな、黒揚羽」 顔を見せたのは見覚えのない男だった。口調こそ軽いがその手には銃が握られ、銃口はの方に向けられている。 ハートの海賊団のつなぎは来ていないが、やはりローの息の掛かった人間なのだろうか。 「俺が誰だか分からない、って顔をしているな」 の怪訝な表情を読んだのだろう。 男は歪んだ笑みを浮かべ、地面に座り込んだを見下ろしている。 「俺はフェンリル海賊団の元船員だ」 「……!」 は静かに息を呑む。 その海賊団の名前には聞き覚えがあった。確か――― 「お前に情報を売られたばっかりに、俺の所属していた海賊団は奇襲をかけられたんだ。 船も、仲間も、宝も、お前のせいで全部失った!」 そう、がその海賊団の名前に聞き覚えがあるのは、とある別の海賊団にフェンリル海賊団の情報を売ったからだった。 確か、フェンリル海賊団の主戦力となっているメンバーの特徴と名前、戦い方。 さらに、次の目的地となる島の名前と、通るであろう航路も。 その情報がその後どう使われたのかには知る由もなかった。 しかし男の話からすると、その海賊団はから得た情報を元に奇襲をかけたのだろう。 そして、目の前の男は全てを失ったのだ。 「あいつらは黒揚羽のお陰で俺達を殺せると喜んでいやがったよ! だから生き延びた俺はお前をずっと探していた……2日前、お前が2番街の広場で蝶の姿で人を殺すのを見て、久々に神の存在を信じたよ」 この男もあの広場での出来事を見ていたのか、とは内心驚いた。 ローの件といい、軽率な行動が自分を窮地に追い込んでいると感じ、歯噛みする。 「……あの現場を見ていたの?」 「あぁそうさ。そこからお前を尾行したから、この宿屋も突き止められたんだ」 それからずっとここで張り込んでいたんだ、と呟いた男の声にただならぬ執念を感じ、はぞくりとした。 しかし、今までがやってきたことを考えれば、ここまで恨まれても決して不思議ではない。 相手が金さえ払ってくれるのならば、誰にでも情報を売る。 誰かにとって利益となり、誰かにとって損となる情報を。 損となる情報を売られた人間は、何かを失ったり、不利益を被るのだ。 例えば、今目の前にいる男のように。 「そのご自慢の翅をもいでやるよ。お前なんて、翅が無ければただの小娘だ。 能力者なんて普段悪魔の実の能力に頼り切ってる分、その能力さえ無効化してやれば大したことはねぇ」 「……」 「盗み聞きしか脳のない、小賢しい小娘め――」 ――ダァン! 再び銃声が響く。 至近距離で発砲されたため避け切ることができず、銃弾はの右肩を掠めて翅を貫通した。 「翅はもうぼろぼろで、毒で俺を殺すこともできねぇようだしな?」 「……随分、能力を含めて私のことをよく知っているのね」 「一昨日、お前の戦い方を見ることが出来たからな。それにお前の悪魔の実のモデルになっているのは元々猛毒を持つことで有名な蝶だろう」 「……」 「さぁ、年貢の納め時だ。大人しく、俺に復讐を遂げさせてくれ」 確かに、数発被弾したの翅は大きく穴が開いていた。 無傷な翅の面積が少なすぎて、鱗粉を振りまいても目の前の男を死に至らしめることは不可能だろう。 ―――だが。 に打つ手がなくなったわけではない。 「……さっさと私を殺せば良かったのに」 「あぁ?」 「その無駄なお喋りのせいで、あなたのその素晴らしい復讐は失敗に終わるのよ」 「何だと!?」 笑みを浮かべ、余裕のあった男の表情が一変する。 「減らず口を叩くな!このクソ生意気な女め……!」 逆上した男が再び銃を構える。 ―――狙い通りだ。 は、この瞬間を狙っていた。 男の意識が銃に集中し、から注意が僅かに逸れる、この一瞬を。 再度銃声が響く。 しかし、タイミングを見計らって再び獣型――即ち蝶の姿となったにその銃弾が当たることはなかった。そのまま地面を這うように飛ぶ。 翅が被弾しているため、飛ぶスピードは無傷な時と比べると格段に遅い。 しかし、ほとんど距離のなかった男の背後に回り込むのは、そう難しいことではない。 「クソっ、どこいきやが……がはッ!?」 ―――ドスッ 再び獣人型に戻ったは、を探してうろたえていた男の背中にナイフを突き立てた。 正確に背後から心臓を貫いたそのナイフは、男の命を無造作に抉り取る。 「が……ァッ…ううぅっっ」 がナイフを引き抜くと、どさりという音とともに男が倒れこんだ。 血だまりが地面に広がっていく。 倒れた男とハナの間を、冷たい夜風が吹きぬけた。 「……ほん、とう、は……」 息も絶え絶えの男が口を開いた。 「……何?」 「お前の翅をもいで……俺が海軍に…ゴホッ、引き渡し…たか、った、」 「……私はお尋ね者じゃないわよ」 はただの情報屋だ。手配書はないし、その首に賞金も掛かっていない。 海軍からしてみればただの一般人の女で、価値はない。 「……あぁ、今日までは……な」 男は震える右手で、胸元から皺になった何かの紙を取り出した。 手配書のように見える。 「どういうこと?」 「明日、お前の手配書が……公開、される。 俺が……海軍に……ゲホッゲホッ、情報を……提供して、やっ、たからな」 「はぁ!?」 「せいぜい……苦労して、逃げ、やがれ。 散々お前、が……ウっ、情報を売ってきた、荒くれどもか、ら」 満足そうに笑みを浮かべた男は、目を開いたまま息絶えた。 慌てて男の右手に握られた紙を引っ張り出す。 「……う、そ」 思わず、唇から驚きの声が漏れた。 それは確かにの手配書だった。 『懸賞金3000万、"黒揚羽"』とそこには書かれている。 (―――最悪) 「ついにお前もお尋ね者か、黒揚羽屋」 「……トラファルガー・ロー……」 いつから居たのだろうか。 月明かりに照らされたその長身の男は、地面に呆然と座り込んでいるハナを見下ろしていた。 突如始まった男との戦いに集中していたため、周囲に気を配れていなかったと今さらながらに気付く。 2日前の広場の件といい、自分は注意力散漫なのかもしれない。 「聞いてたの?」 「時間になってもお前が現れないんで、探しに来た」 銃声も聞こえたしな、というローの言葉には納得する。 手元の時計はとうに0時をまわっていた。 「一介の情報屋をお尋ね者にするとは……海軍から余程恨みでも買ってるのか」 「……そんなの、こっちが聞きたいくらいなんですけど」 ローの疑問はもっともで、も不思議に感じていた。 確かに情報屋稼業で多少なりとも争いの火種を作っていることは否定しないが、この首に賞金を掛けるほどではないと思う。 「今日お前を呼び出したのは、おれの海賊団に勧誘するためだった」 「……え?」 「おれはお前の能力を買っている。とりあえず船までこい」 「ちょ、何か勝手に決めてるけど、私あなたの船に乗るなんて一言も、」 「お前に選択肢はない」 「は?」 「その手負いの状態で賞金稼ぎどもから逃げるつもりか?もうそのツラも割れてんだぞ」 「それ、は……」 ローの尤もな問いには口ごもった。 蝶の翅は被弾しており、逃げることはおろかまともに飛行することすら難しい状態だ。 手配書が世界中に配られれば、もう今までのように素知らぬ顔をして街を歩くことは出来なくなる。 この男に着いていくか。リスクを承知で、これからも一人であてもなく生き延びるか。 後者を選んだとしても、今まで通り情報屋稼業を続けられるとは思えなかった。 のかけていた『正体不明の情報屋』という保険はもうないのだ。 の首にかかった懸賞金は、名だたる海賊に比べればちっぽけなものだが、一介の小娘にかけられる金額としてはかなり多いと言える。 きっとこの先、自分の命を守るだけで精一杯になりそうだ。 この先も一人で生きるなら、いつかきっとそう遠くない未来に終わりが来る。 「……何で、私にここまで構うの」 「お前に興味があると言っただろう、黒揚羽屋」 丁度いいタイミングで賞金首になってくれたもんだ、とローは呟いた。 その表情は帽子の影に隠れて読めない。 「……」 「これ以上こんなしけた路地裏にいても埒があかねェ」 行くぞ、との返事を待たずにローは歩きだした。 その背中を少しの間見つめた後、ふらつく足を叱咤して立ち上がり、もローの後を追う。 この選択が吉と出るのか凶と出るのか。 現時点では全くもって分からなかった。 ただ、今日という日がにとって大きな分岐点になることだけは、確かに予感できた。 何かを失って、何かが始まった、この夜。 |