あの時から、自分の手が何も掴んでいなかったことに気付いた。
一人でも生きていけることは分かったけれど、夜明けなんて二度と来ない。

濃紺の空を一人で漂うような、そんなあやふやな感覚。








 白夜に見上げたヤコブの梯子 #1    







とある宿屋の一室。
決して広くはないがそれなりに掃除が行き届いた部屋を、窓から差し込むオレンジ色の光が照らしている。


――今回集めた情報は以上です。不足はございませんか?』
『あぁ…毎度お前の情報集能力には驚かされるぜ。予想以上だ』
『恐れ入ります』
『契約通り、残りの金はいつも通り振り込んでおく。またよろしく頼むぜ、"黒揚羽"』
『こちらこそ。では、失礼致します』


通話を終え、は静かになった二匹の電々虫を見つめた。
一匹は通常の通話用の電々虫。もう一匹は妨害電波を発する、盗聴防止用の白電々虫だ。

変声器のスイッチを切り、指先で電々虫を撫でながら先程の会話を思い返す。
相手へ渡した情報には過不足がなかったか。相手に不審な点は見られなかったか。

―――そして、「自分の情報」を相手に喋りはしなかったか。

思いつく限りの注意点を並べ、そしてその全てに先程の会話が当てはまらないことを確認し、ほっと息をついた。


「はー…やっと、終わった…」


が「情報屋」を稼業とするようになって、もう3年経つ。
しかし、いつになっても「客」との会話には酷く神経を使う。
自分が与えた情報により、人の感情、立場、ある時は生死までもが揺れ動くのを何度も見ているからこそ、 自分の情報をむやみに与えないよう、慎重に慎重に立ち回ることにしている。
このグランドラインで、ただの小娘であるが一人で立ち回るためには必要なことだから。

「情報料の支払い」に関しては、おそらく心配しなくても大丈夫なはずだ。
先程の「客」とはもう取引が1年以上続き、その間支払いの期日は一度たりとも遅れたことが無い。
いわゆる「上客」の部類だろう。


(ご飯食べたい。久しぶりにお酒も飲みたい。)


基本的に飲酒は控えているが、1つ仕事も終わったことだし、今日くらいは良いだろうと軽く考える。
座っていた椅子から立ち上がり、は上機嫌で外へと向かった。



*****



適当に選んだ店だったが、食事の味はそこそこだった。
早々に食事を平らげたは、つまみのチーズを齧りながら色鮮やかなカクテルをのんびりと飲む。
夕食には少々早い時間だったが、そこそこ店内には人が入っていた。
それなりに流行っている店なのだろう。

(……客の質はイマイチみたいだけど)

はカウンター席に座っているので大半の客から背を向けている状態だが、 この1時間ほどですでにもう2,3度の怒号を聞いている。
そもそも治安が良くないであろうことは、この街に着いてすぐに気付いていた。
昼間に街を歩いていても、喧嘩やいざこざをあちこちで見かけたし、ガラの悪い連中が 肩をそびやかして歩いていたからだ。

(さっきの仕事も終わったし、もうこの街に留まる理由もないよね)

今手持ちの仕事の期日を考えながら、次はもっと静かな街に行きたいなぁとは思った。
気候が穏やかで、できれば食べ物も美味しいところ。
もっとも、このグランドラインでそんな街が都合よくあるのか疑問だが。


「よぉ、姉ちゃん。一人かい?」


背後から聞こえてきた声に顔半分だけ振り向くと、そこにいたのは明らかに柄の悪そうな男たちが3人。
どう控え目に表現しても上品とは言えない笑みをに向けていた。

あーあ。と心の中で嘆息する。


「一人で寂しく飲んでないで、俺たちのテーブルに来いよ」
「まぁ最も、店の外でよろしくやるのもいいけどなァ?」


男たちはぎゃはは、と耳障りな笑い声をあげ、 の顔と身体を舐めるように見ている。 おまけに、「おい上玉だぞ」などという下衆な感想まで聞こえた。
不快な視線を向けられ、一瞬頭に血が上りそうになるが理性で押し留める。
人前で注目を浴びるような真似をするのは避けたい。

(とりあえず適当に乗ったふりをして外に誘導しようかな)

憂さ晴らしはその時にやればいい。
そう考え、腰を上げようとしたその時。


―――ゴン!!


に向かって手を伸ばそうとしていた男が一人、鈍い音とともに倒れた。
倒れた男の傍に転がるのは――空のジョッキ。


「へ?」


状況の理解に頭が追い付かず、思わず口から間抜けな声が洩れる。


「大の男大勢で女の子に群がって何やってんだ、みっともねーぞぉ!」


そう声を上げたのは、のすぐ後ろのテーブルのカラフルなキャスケットを被った男性だった。
何ならもう一発そのきたねーツラにお見舞いしてやろうか、と叫びながら空のジョッキを振りかぶっているあたり、 どうやら床に倒れた男はこのキャスケットの男性が伸してしまったらしい。
空のジョッキをぶつけて。


「おいシャチ、もうお前飲むな。飲みすぎだぞ」


キャスケットの男性を冷静な声で諌めるのは、これまた帽子を被った男性。
帽子には「PENGUIN」と書かれている。
おれ、別に酔ってねーよ!と「シャチ」と呼ばれたキャスケットの男性は呂律の回っていない声で主張しているが、 どう客観的に見ても酔っているように見える。


「テメェ何しやがる!!」
「おいお前やめとけ……こいつら、『ハートの海賊団』だろ」


いきり立った男を焦ったように別の男が止める。
ハートの海賊団という言葉を聞いた途端、男達の顔色が一斉に変わった。


「おいマジかよ」
「…ハートの海賊団って言ったらあの『死の外科医』が――


ぼそぼそと顔を寄せ合って何やら話した後、さっきの威勢はどこへやら、青ざめた男たちは床に倒れた男を抱えて 脱兎のごとく店の外へ逃げ出した。

嵐のように過ぎ去った男たちをあっけに取られて見ていたは、あわてて視線を戻した。
キャスケットの男性と目が合う。
咄嗟に何か要求されるのかと身構えたが、彼はへらりと笑みを返すだけだった。

(助けて、くれた?)

口パクでありがとう、と礼を言ってみる。
の意図は伝わったらしく、キャスケットの男性はひらひらと手を振った。
そして再びジョッキをあおっている。
彼のテーブルには、他にも10人ほどが座っている。
ほぼ全員が同じような白いつなぎを着ていることから、おそらく同じ海賊団なのだろう。

――ハートの海賊団。

その名前はここ最近よく耳にしていた。
たしか船長は億超えルーキーだったはず。
さて、名前はなんだったか…と横目でテーブルを伺っていると、は明らかに酒場にはふさわしくない色彩に目を奪われた。

(……くま?)

どこをどう見ても白熊にしか見えないもふもふした生き物が、酒場のテーブルの前に座っている。


「ねーキャプテン。グラス空いてるよ?何か飲む?」
「次もこれと同じ奴」
「アイアイ!」


(しかも喋ったし)

喋る白熊を連れた海賊団。
個人的には非常に気になるがいつまでも見ているわけにはいかないだろうと視線を横にずらした、その時。
白熊に『キャプテン』と呼ばれた男と目が合った。

手触りの良さそうなふわふわの可愛らしい帽子の下にあるのは、黒く深そうな隈と鋭い視線。
視線は一瞬だけ絡み、すぐに外れた。
気のせいかと勘違いしそうになりそうな、わずかその一瞬で、 の記憶とその男の顔がぴたりと一致した。

(……これ、最後の一杯にしようかな)

彼らのテーブルに背を向けるように、横向きにしていた身体を戻す。
飲み終わったら宿に戻ろう。
そう心の中で呟き、グラスをあおった。
甘いカクテルが喉を滑る感覚の感じながら、は過去の記憶を辿っていた。


――ハートの海賊団船長、「死の外科医」トラファルガー・ロー。

手配書は何度も見たことがあったため、彼の顔は知っていた。
そして。

は以前に一度、トラファルガー・ローと接触したことがあった。
「情報屋」の、情報を売る「客」として。



(取引は一回だけだったけど、「客」にこの姿を見られるのは嫌だな)

とっとと退散しよう、と空になったグラスを置き、は飲食の代金を払おうと席を立った。



*****



酒場を出て、宿に向かって歩いているを照らすのは、頼りない三日月の月明かりだった。
夜の少し肌寒い空気が頬を撫でる。

は夜が好きだった。
姿を見られるリスクが減り、自分の能力を使うのに最も都合が良い時間帯だからだ。

遠くのほうで喧騒が聞こえるのは治安の悪い街ならではだろうか。
ゴロツキが喧嘩でもしているのかもしれない。


「……?」


見える範囲には人の影は見えない。
しかし、は不穏な気配を感じて道の途中で足を止めた。
民家や店が立ち並ぶ道のため、死角は多いと言える。


「よぉ、さっきは世話になったなァ」


死角となる建物の影から出てきたのは、さっき酒場でに声を掛けてきた男達だった。
あのキャスケットの男性にジョッキを投げつけられた男が、恨みがましそうな目でこちらを見ていた。


「手前のせいでいらねェ恥かいたんだ。身体で責任とってくれよ」
「ギャハハハ!それがいい!!」
「嬢ちゃん、痛い目にあいたくなかったら大人しく言うことを聞くんだな」


もしかすると、が先程の酒場から出てくるのを待ち伏せていたのだろうか。
なんて暇な連中なんだろう、と胸中で呟いた。


「……私のせいっていうけど、私何もしてないでしょ。
 ジョッキをぶつけられた仕返しなら、ハートの海賊団の連中にすればいいじゃない」
「うるせェ!ごちゃごちゃ言いやがって…」
「威勢のいい嬢ちゃんだな。すぐにその生意気な口がきけないようにしてやる」


少し言い返してみると、すぐに男達は顔を真っ赤にして噛みついてきた。
ハートの海賊団に喧嘩を売るような度胸も力もないから、弱そうなに溜まった鬱憤をぶつけようと
しているのだろう。
逆恨みの上に、逆切れなんて最悪だ。
男達の勝手な言いがかりに、はうんざりしてきた。
そして、素早く辺りを見まわし、もう一度気配を探る。


――――夜。
街を照らすのは、仄かな三日月の明かりだけ。
そして周囲には恐らく誰もいない。
風は穏やかで、の能力を使うには絶好のシチュエーションだった。


「口がきけなくなって、後悔するのはどちらかしらね」


不敵な笑みを浮かべたは、能力を発動させた。


―――……消え、た?」


呆然とした男の呟きの通り、男達の視界から一瞬での姿が見えなくなる。
先程までが立っていた空間には、誰もいない。


「どこに消えやがった!あの女!!」
「探せ!!」


慌てて辺りを見回す男たちの間を、小さな黒い影がすり抜ける。


「蝶……?」


ひらひらと男達をからかうように羽をはためかせるのは、闇にまぎれそうな揚羽蝶。
何でこんな所に蝶なんか、と訝しげな声をあげようとした男達は、自分がまともに声を出せなくなっている ことに気が付く。
それどころか、手足までもが痺れて思うように動かせない。


「うぅっ、くる……し……」
「が、ああぁぁぁァァ、うっ……」


苦しそうな声を最後に、どさりと人間が倒れるような音が3人分。
苦悶の表情でを残し、男達がピクリとも動かなくなったことを確認したは、能力を解いた。
人獣型である蝶の姿から、人間の姿へ戻る。




人にあらざる力を手に入れる代わりに海に嫌われる――悪魔の実。

この力のお陰で、は「情報屋」としてグランドラインで生きている。


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